
| 四国地方 |
| 讃岐(香川県) |
徳川光圀(水戸黄門=水戸徳川家2代藩主)の兄・徳川頼重が在城
高松城 別称=玉藻城 (平城・海城) 【所在地】 香川県高松市玉藻町
| 築城時期: 1588年(天正16) | 築城者: 生駒親正 |
着見櫓・水手御門・渡櫓 (現存)
着見櫓 :三層3階・入母屋造・総塗籠造り・本瓦葺の新曲輪の隅櫓、初層は
入母屋、二層は唐破風、各層の白壁に上下2本の黒塗長押を巡らしてある 水手御門 : 薬医門形式で、いわば、海の大手門の役割 着見櫓は、1676年(延宝4)頃に完成、航海の出入りする船を監視
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| 遺 構 《 現存/着見櫓・水手御門・渡櫓・艮櫓 遺構/天守台・石垣・堀 》 | |
艮(うしとら)櫓
もよもと東之丸の北東の隅にあったものを、旧太鼓櫓跡 に移築(現存)、向かって右の橋は旭橋 三層3階・入母屋造・本瓦葺、1677年(延宝5)頃の完成 |
天守台&内堀
かって、生駒氏の頃は三層4階、松平氏の頃には三層5階の天守閣が存在したが、明治17年に老朽化のため取り壊す。 神殿は玉藻廟。向かって右の橋は鞘橋(二の丸から本丸への唯一の出入りである) |
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高松城は、JR高松駅とはつい目と鼻の先、フェリーや観光船が息つく間もなく発着する高松港のすぐ南隣に位置し、♪♪讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上♪♪と歌われたように、城の北側が海に面し、残り三方の堀には海水を引き入れた海城です。
城の縄張りは、黒田孝高とも細川忠興ともいわれ、外堀・中堀・内堀(現在残っているのは、内堀と中堀の一部のみ)を巡らし、本丸を中心に時計廻りの方向に、二の丸・三の丸・桜の馬場・西之丸を配した堅固な構えとなっていた。 生駒家4代54年、松平家11代228年の歴代藩主の居城として、また、将軍家と近親関係にあった松平氏は、中国・四国および瀬戸内海の監視役としての役目を持っていました。 城址一帯は、昭和30年に「玉藻公園」として一般開放され、公園面積は約2万4千坪ですが、往時の城域は、約20万坪あり、現在の8倍ほどの広さがありました。 天下の名園として名高い「栗林公園」は、高松4代藩主生駒高俊が別邸を築いたことに始まり、松代頼重から松平5代頼恭の代に至る約100年の歳月をかけて造営されたものです。 11代藩主松平頼聡の奥方として、近江彦根藩主だった井伊直弼の次女・千代姫が輿入れしている縁から、高松城は彦根城と姉妹城縁組をしています。
“関が原の役”に際して、親正は西軍に与したが、子の一正が徳川方として功績をあげたため、戦後、讃岐の主としての地位は保証された。
1642年(寛永19)、水戸徳川家2代藩主徳川光圀の兄・松平頼重(水戸徳川家藩祖・徳川頼房の長男)が、常陸下館より東讃岐12万石の城主として入る。
1635年(寛永12)には、伊予松山城の蒲生忠知が無嗣断絶されて、松平(久松)定行(徳川家康異父同母弟・松平定勝の嫡子)が配されており、幕府は、外様大名から松山城と高松城を召し上げ、親藩大名を封じたわけで、以後、高松城は松山城とともに、幕府の四国出張所的な役割を与えられ、松平氏11代の居城として明治を迎える。
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水門(海水の導入門)
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桜御門跡(桜の馬場〜三の丸)
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◇◇ 城郭復元の情報 ◇◇
高松市では、玉藻公園開園以来、半世紀に渡り人々の関心を集めている
高松城の関連資料があれば,例え小さな資料でも結構ですので、
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