松山城-1 ザ・登城
四国地方
ザ・登城TOPへ
伊予(愛媛県)
加藤嘉明が築き、家康の甥が引き継いだ堅城 我が国最後の完全な城郭建築

松山城[まつやまじょう]
別称=勝山城・金亀城 (平山城) 【所在地】 愛媛県松山市丸の内

築城時期 :  1602(慶長7)年 築城者 :  加藤嘉明

いよ まつやま じょう

旅人の 城へ上るや 春の風
正岡子規

大・小天守と天守曲輪の諸櫓が連なる姿を見上げると
力強く武骨さに満ちた美しい面構えである
とりわけ山の麓からの景観は
雄渾さにあふれ、街の中央に聳える建築郡は
市内の何処からもその威容が望まれ
人々のこころにいつまでも生き続けている

画像提供者 : 愛媛県松山市在住・清水純一 さま

 遺 構  《 現存/大天守・櫓・門  復元/小天守・櫓・門  遺構/曲輪・石垣・井戸・
  水堀 》
 松山市のシンボル、伊予松山城は標高132mの独立丘・勝山の山上の本壇・本丸と、中腹の二の丸、麓の三の丸の3区画に大別される。
この山上、中腹、麓からなる城構えを平山城と呼び、姫路城・和歌山城とともに、松山城は日本三大連立式平山城と称される。

他にも、山麓に北曲輪、東曲輪があり、また、往時には、三の丸に隣接した西の丸および加藤嘉明入城時の仮屋敷、未完成に終わった惣構えの水堀と土塁の一部などがあった。
現在、二の丸は史跡庭園として整備され、三の丸には3方に土塁と水堀が残り、北曲輪および東曲輪には石垣の一部が残っています。

松山城の建造物のうち、大天守をはじめ、6基の櫓・7基の門・7ケ所の塀の合計21棟が現存しており、これら全てが国の重要文化財指定を受けています

加藤嘉明は築城に際し、城郭内に松を植えて「松山」という名称を公にした。食用(表皮内側の白い部分をアク抜きして)、建築材、松明、薬、柵木、逆茂木など多用途な松を植えて実用としたのである。


 松山城の創設者は加藤嘉明である。嘉明は三河(愛知県)生まれ、父教明は徳川氏の家臣であったが、嘉明が6歳の時に逝去する。やがて、羽柴秀吉に見出され家臣となり、20歳の時、賎ケ岳の合戦にて七本槍の一人として武勲を挙げ、淡路・志知城主1万5千石を与えられ淡路水軍を統率することになる。その後も水軍の将として武功を重ね、伊予・松前6万石の城主となり、「文禄・慶長の役」等の活躍により10万石に加増された。

1600年(慶長5)の「関が原の戦い」の戦功により伊予半国20万石に加増された嘉明は、手狭な松前城から移転して新城を築くこととし、足立重信を普請奉行に命じ慶長7年に着手し、翌年には居を新城下に移し、初めて「松山」と雅称した。
戦国の下克上の世を駆け上がった武将が築いた、堅固にして壮麗な連立式五層天守の松山城がほぼ完成したのは、26年を費やした後の1627年(寛永4)のことであった。
ところが嘉明は、その完成を喜ぶ暇もなく、同年、奥羽の要の会津若松(福島県)40万石に転封された。

入れ替わりに松山城主となったのは、名将蒲生氏郷の孫・忠知(祖母は織田信長の二女冬姫・母は徳川家康三女振姫)であり、出羽(羽前)上ノ山(山形県上山市)から蒲生家故地の近江日野4万石を併せて24万石を領した。
1634年(寛永11)、忠知は、参勤交代の途路の京都で病没(30歳)し、嗣子のいない名門蒲生家は、松山存城7年余りで断絶する。

一年近くの番城時代を経て、1635年(寛永12)に伊勢桑名より徳川家康の甥(異父同母弟の松平定勝の嫡男)である松平定行が15万石で入城する。
1642年(寛永19)、定行は幕府に配慮して嘉明の五層天守を三層に改築、また楼櫓を修築した。この三層の天守は1784年(天明4)の元旦、落雷により他の天守の主な建物とともに焼失してしまう。
打ち続く天明大飢饉による藩財政の圧迫などにより再建は遅れ、36年後の1820年(文政3)に再建着手され、35年の歳月を経て1854年(安政元)に復興した。落雷焼失から実に71年という歳月が流れた幕末のことである。
連立式城郭の雄姿が再び甦り、これが、今日見られる松山城で、我が国最後の完全な城郭建築(明治維新の14年前)となった。

松山城三代目の久松・松平氏は、徳川親藩として定行から数えて15代続いて版籍奉還となった。
「寛政の改革」を断行した松平定信は、9代藩主松平定国(御三卿田安家の養嗣子)の弟である。


 

無念! 完成直前に横取りされてしまった
 26年もの歳月を費やした一大牙城を、いくら倍の会津40万石への栄転にしても、完成直前(9割以上)の城をあとにしなければならなかった加藤嘉明主従の心境はいかばかりであったろうか?・・・

この城郭・・・櫓・塀などが羽目板張りのせいか、見ていると古武士的イメージを抱き、いかにも古風な感じのする城で、築城当時の面影を留めており、そこかしこに名城の雰囲気を醸しています。
大手門跡から本丸南曲輪の筒井門前一帯の巧みな防衛構想、本丸からの本壇外・内天守曲輪の複雑且つ迷路みたいな寄手を何度もさえぎる防御構造など、見るものを飽きさせない見所があります。

標高は、同じ平山城である熊本城・姫路城の約2.5〜3倍、彦根城は確か134mだったと思うが、彦根は天下普請、その点を割り引くと、名参謀・足立重信を抱えた築城の名手加藤嘉明の並々ならぬ意気込みが感じられます。
2度目の訪問で、雨の中、一日中駆けずり回ったが、もう2度・3度と訪れてみたい城であり、好きな城の一つです。

松山城巡り−1
2003年4月1日[Tus]
 AM8時、東雲口ロープウェー第1駐車場に到着。小雨模様。切符売り場内休憩所にて、はやる気分を抑えて一服
ロープウェーとリフトは共通券で往復大人500円・子供250円、リフトは雨のため運行休止でした。
約2分で中腹の長者ケ平に到着。「腹が減っては・・・」ということで、売店にて抹茶・坊ちゃん団子を頬張って、いざっ登城開始・・・
本丸下南側腰曲輪
坂道を登ること5分、着きました!揚木戸門跡。ここは東曲輪からの登城道で、本丸南面下段の腰曲輪で、高さ14mの高石垣が東西に、「く」の字形に積まれています

高石垣下を進み、北へ90度右折した向って左側に、大手門跡があります

揚木戸門跡近くの高石垣
ここ大手門跡(注:画像は内側から)は、本丸下段腰曲輪において揚木戸門と左右端一対に位置しており、ここから下ると中腹の二の丸から山麓の三の丸の大手口(黒門口)に抜けられます

大手門跡右側の腰曲輪をまっすぐ進むと、そこには、高石垣の上に築かれた太鼓櫓が前方に立ちはだかり、そこを180度折り返すと戸無門がある。

大手門跡(内側)
この戸無門(現存)は、大手口・東雲口・ロープウェーで松山城に来て最初にくぐる門です

文字通り戸が無い門で、慶長年間に建てられた高麗門形式です

門扉が無いのは、戦略的(挟み撃ち目的)な、敵を筒井門前に誘い込むための罠なのです

戸無門をくぐり90度左折すると、左手に筒井門が構えています

戸無門(現存)
本丸南腰曲輪
筒井門 筒井門(内側) 隠門(現存)
筒井門(左画像)は、本丸大手の正面を固める重要な櫓門で、凹型の埋門式の松山城で一番大きい門です
慶長年間、築城の時に松前城(伊予郡松前町)から移築(隠門は後に付設)されたものです 昭和24年放火により焼失した後、昭和46年、古い資料を元に復元

筒井門内側(中画像)は、次の太鼓門南側には本丸より4m低い一段があり、筒井門南側はさらに4m低い腰曲輪となっている
この筒井門前腰曲輪に至るには、本丸大手門跡からは3度のヘアピンカーブを繰り返して、15mの高低差を上がることになる
※ 画像には入っていませんが、中画像の隠門左脇(東側)には、隠門続櫓(現存)が付属しています

大手門跡または揚木戸門跡から、ようやく筒井門前腰曲輪にとりついた敵に対して、城内からクグリ戸付き隠門(現存)(右画像)(注:左画像の筒井門外側の右側石垣の奥にあり)を出て、敵の背後を襲う仕組みになっています

門扉の無い戸無門のカモフラージュが、この隠門によって、その効果が発揮されるわけです

本  丸
太鼓櫓 太鼓門(内側) 巽櫓(内側)
現在、本丸部分のある勝山山頂への登城道(徒歩)は、「黒門口(二の丸経由の大手口)」・「東雲口(東曲輪の北東方角)」・「古町口(北曲輪南西の搦手口」・「県庁裏口」の4ケ所があり、ロープウェー・リフト施設は東雲口からの登城道にほぼ平行しています

筒井門を潜ると左前方(本丸南西角)に太鼓櫓(左画像)を見つつ90度右折し、さらに90度左折すると、南北棟(東向き)の太鼓門(中画像=内側面)が中程にあり、さらに、右前方(本丸南東角)に巽櫓(右画像=内側面)があります

太鼓櫓は、2つの角に石落としを備えた二層(一部一層)隅櫓で、上層は入母屋屋根で、この櫓下の大手門跡から戸無門へのヘアピン手前からの石垣の高さは20mもあります  接する間口24.4mの渡塀には、鉄砲狭間16ケ所・石落とし3ケ所が立ち並んでいます
太鼓門は櫓門、巽櫓も二層隅櫓で上層は入母屋屋根です 太鼓門と巽櫓の外側は枡形になっており、太鼓櫓・渡塀・太鼓門・巽櫓は1つの防御単位を構成し、高さ6.9mの石垣の上に一線に構築されています 

本丸にある太鼓門・太鼓櫓・巽櫓と、下段にある艮門・艮門東続櫓の5基はいづれも、昭和20年の空襲で焼失し、昭和46年以降の復元である

左 : 艮門((うしとらもん)(復元)
右 : 艮門東続櫓(復元)

 本壇の東方角にあたり、この方面の防備を担当すると共に、虎口として寄手が長者が平から揚木戸門に、あるえは、搦手の乾門方面に迫った時、この門から出撃して寄手の側面をつく戦法を考慮して設けたものです
注 : 右画像の艮門東続櫓の右側一層屋根部分が艮門になります

艮門 艮門東続櫓
南北に広大な本丸部分の敷地は、築城前には2つの峰であった これらを削り平らにしたため、本丸南方にあるこの井戸は、峰の谷にあった泉を井戸としたため、深さが約47mもあり、直径は2m
 井戸跡奥の建物はトイレ棟で、北側には、城郭風建物のオススメの売店・食事処があります
他に本丸内には、城管理事務所として使用されている鉄筋コンクリートの馬具櫓、および本壇への入城券売場があります
 ここからは眼下に松山市が一望でき、また、遠くに瀬戸内海もみることができ、観光名所・市民憩いの場・公園として広く利用されています
本丸井戸跡
本丸馬具櫓下の屏風折れ(屈折)高石垣

 この本丸西側の高石垣は、死角をなくすため、延々と9ケ所も
 石垣を屈折させて積んであります

本丸馬具櫓下の屏風折れ(屈折)高石垣
本丸北曲輪
紫竹門(現存) 松山城本壇・天守閣入城料

大人 500円
子供 150円

営業時間
9:00⇔16:30〜17:30
(季節により変動あり)

野原櫓(現存)
 天守曲輪が形成される本壇をぐるりと囲むように本丸北曲輪がある ここは搦手口を守る曲輪です

左 : 紫竹門(現存)
 本丸北曲輪部分の本壇南側にある高麗門で、この紫竹門か、後述の仕切門(跡)を経由しない
 限り、本丸さらに本壇へは入れない
 また、この紫竹門と東西2つの続塀(現存)によって本丸の大手と搦手を大きく仕切ったところ
 で、搦手を堅める重要な構えである

★ 仕切門(跡)
 本丸北曲輪・北西隅の本壇・北隅櫓石垣下部にあったもので、本丸北曲輪と、本丸艮門(本丸
 東方角)とを仕切った搦手口・本丸・本壇防衛のための門(跡)

右 : 野原櫓(現存)
 乾櫓と本丸北曲輪西北部、さらに本丸北側を防御する重要な櫓です
 この櫓は、大入母屋の初層棟行と直角に二層目の棟行が載る、古式な望楼型の櫓手法を用い
 ている

乾門(いぬいもん)
 本丸北曲輪北西隅の山麓北曲輪に通じる搦手口(古町口)を防
 御する脇門付きの櫓門です。
 また、往時には、この門の下部に乾一の門も存在しました

 下段の乾門東続櫓と同じく、慶長年間に松前城(伊予郡松前
 町)から移築されたもので、昭和20年戦災にて焼失、昭和
 57年に復元されました

乾門
乾門東続櫓(内側部分)
 乾門に接する単層入母屋造りの隅櫓で、石落とし付きです

 注 : 乾門東続櫓の右側は乾門、右端(最奥の隠れてる部分)
 が乾櫓です

乾門東続櫓
乾櫓(現存)(内側部分)
 乾一の門跡・乾門・乾門東続櫓とともに搦手を防衛する重要な
 二層隅櫓で、石落とし付きです
 松山城山頂部本丸部分の西北隅に位置するのでこの名があり
 ます

 乾門・乾門東続櫓と同じく、慶長年間の築城時に松前城から
 移築されたもので、城郭の中で最も古い建造物の一つである

 注: 画像左端が乾門です

乾櫓(現存)
土壁ライン

いよ まつやま じょう

松山城 本壇の一部
(あまり見られない西北西方向アングルのズームアップ画像です)

本丸のさらに奥に独立した天守曲輪(内と外2つの曲輪がある)である本壇があり、本壇内部には、大・小天守、玄関、玄関多聞櫓に、6つの隅櫓および蔵、さらに6つの門があり、これらは全て多聞櫓と土塀(太鼓塀)によって仕切られた連立式である

大天守と6つの門、一の門南櫓、二の門南櫓、三の門南櫓は現存。他は、昭和8年の怪火により焼失。現在の建物は昭和43年(天神櫓のみ54年)に1852年(嘉永5)再築時の姿を復元したもの

大天守の右下の屋根は左から北隅櫓、小天守閣、南隅櫓、
左下の独立した屋根は天神櫓です

木々の葉が茂ると写せない冬季限定の写真で、
木々の中に見える石垣は本壇部(上部)と、本丸の北面(下部)の石垣です

画像提供者 : 愛媛県松山市在住・清水純一 さま
撮影地点 : 本町5丁目方面より

登城アクセス
  車  : 松山道松山IC〜国号33号線/小坂〜国道11号線/勝山/一番町〜
  市道

鉄 道 : JR予讃本線松山駅〜徒歩約10分
駐車場 : 松山城周辺の有料駐車場を利用

松山市ホームページ「松山城総合案内」ページへリンク
松山市公式HP 「松山城総合案内」 ページへリンク

■  松山城巡り−1 (松山城の概要・歴史・見所)・(本丸下南側腰曲輪・本丸南腰曲輪・本丸
  本丸北曲輪)
■  松山城巡り−2 (本壇(天守外曲輪)・天守外曲輪〜三の門〜筋鉄門〜天守内曲輪・
  本壇(天守内曲輪)・天守外曲輪〜仕切門〜内門〜天守内曲輪・小天守と本壇の櫓群・
  大天守・本丸下南側腰曲輪・二の丸・三の丸・東曲輪・登り石垣など)

ザ・登城TOPページへ
ザ・登城TOPに戻る


[PR]Id:lCIw祝烱銑悦x