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四国地方

伊予(愛媛県)

名築城家藤堂高虎が築いた、かつて軍船を停泊させた海城

今治城[いまばりじょう] 別称=吹上城・美須賀城 (平城・海城)  【所在地】 愛媛県今治市通町3-1-3

 築城時期:  1602年(慶長7)  築城者:  藤堂高虎

いまばり じょう
模擬天守閣&山里櫓
向かって左が山里櫓(平成2年外観復元)
天守は五層六階(昭和55年再建・中は博物館)

 遺 構  《 復元/武具櫓・御金櫓・山里櫓・隅櫓 模擬/天守閣 遺構/石垣・井戸・堀 》
武具櫓
(三の丸北東隅・昭和55年復元)  
御金櫓
(二の丸南東隅・昭和60年復元)
 訪ねてみて驚いた・・・城の堀で釣りをしている人たちがいた。訪ねてみると、ボラや鯛が釣れると言う。
 ちょうど満ち潮時で、内堀の北の一角にある水門から、潮の香りを漂わせた海水が流れ込んでいる。(下のの画像)

 “関が原の合戦”(1600年/慶長5)で戦功のあった藤堂高虎は、伊予半国20万石の太守となり、瀬戸内海の交通の要衝であり、西国大名の動向を探るうえにも軍事的に重要な地でもあり、水軍を率いて巧みな高虎は、今治の地の海際の砂丘の浜辺を新たな城地とした。

 内掘・中堀・外堀と三重の水堀を巡らし、海水を引き入れた平地の平城であるが、軍船停泊の舟入部まで設けた巨大な海城でもあった。

 今は本丸周囲の内堀しか残っていないが、幅の広い堀、犬走りのある石垣、石垣上には隅櫓が立ち並び、多聞櫓を建て回した本丸に高虎好みが良く表れている。

 往時は、現在残っている城域の10倍程の広さを誇り、かって本丸には五層五階の天守が天守台を設けることなく(本丸基壇部の石垣は、野面積みの高さ14.5mあり)、平地に建っていた。

 この天守、高虎の伊勢・伊賀への転封に際し、解体されて伊賀上野城へ移築する予定であったが、徳川家康の天下普請丹波亀山城の築城命令があったため、この解体した天守を丹波亀山城(京都府亀岡市)へ献上(明治10年まで存続していた)している。


 今治城の築城は、1602年(慶長7)から2年3ケ月かけて行われ、城下町の形成もなされた。
慶長11年、藤堂高虎は、江戸城縄張りの功により、備中2万石を加増され22万石となる。

 1608年(慶長13)、高虎は伊勢津城・伊賀に国替えとなり、今治の地は飛び地となり、養子・藤堂高吉が2万石を領し居城する。

 1635年(寛永12)、藤堂高吉は伊賀名張に移り、名張陣屋(三重県名張市)を構えて津藤堂家の支藩となる。

 替わって、松平定房(徳川家康の甥で兄の松平定行の伊勢桑名から伊予松山への転封に従う形)が伊勢長島より3万石で入城する。

以後、替わることなく、松平(久松)氏が10代続いて明治維新を迎える。

山里櫓
(三の丸北西隅)
今も海水が入り、潮の干満により水位の変わる内堀

現在の海水流入口 

本丸御門

勘兵衛石
(大手口鉄御門石垣にあったもの)
重さ16.5トン、家老で築城奉行の
渡辺勘兵衛が用いた大石 


天守より今治港・来島海峡大橋方面を望む

登城アクセス
  車  : 瀬戸内しまなみ海道今治IC・松山道西条IC〜国道196号線〜
  国道317号線

 鉄 道 : JR予讃本線今治駅〜徒歩約15分
 駐車場 : 今治城の無料駐車場を利用

今治市公式HPへリンク 
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