
| 関東地方 |
| 常陸(茨城県北部) |
徳川御三家・水戸徳川家の城
| 築城時期: 建久年間(1190〜1199年) | 築城者: 馬場(大掾)資幹 |
城 門 (薬医門形式・本丸橋詰門) |
| 遺 構 《 現存/藩校 移築/城門 遺構/曲輪・空堀・土塁 》 | |
大手門桝形虎口の土塁 |
藩校「弘道館」の門
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徳川御三家・水戸徳川家の城。他の2家の城から比較すると、家格の違いか、また、徳川幕府のお膝元関東にあり、その武威を示す必要が無かったせいか、石垣も用いておらず地味な印象がします。
現在、本丸は水戸第一高校、二の丸が水戸第三高校、三の丸が藩校「弘道館」・旧茨城県庁跡地になっています。
那珂川と千波湖に挟まれた「馬の背」のような台地上を、関東地方に多い堀切によって区画した連郭式の縄張りで、
各郭の間の空堀は、現在、JR水郡線・国道が走り、その深さには驚かされる。
水戸城には、御三家らしからぬ三層の天守替わりの隅櫓があったが、戦災で焼失してしまい、これまた、石垣の無い下部を海鼠塀にした天守であった。
◇◇ 見どころ ◇◇
三の丸 : 旧県庁前・藩校「弘道館」・藩校北側にある空堀と土塁 二の丸 : 大手門桝形虎口及び水戸二中校内にある土塁 本 丸 : 水戸第一高校敷地内の城門(薬医門)及び本丸周囲の土塁 市の中心地にありながら、現在、官庁・学校敷地として利用されているため、土塁や空堀が随所に残り、比較的 城郭の原形を保っています。
河和田城主の江戸通房は主家の佐竹氏、鎌倉公方の承認のもと、馬場城への進出を企てた。馬場(大掾)満幹は1416年(応永23)の“上杉禅秀の乱”で鎌倉公方の足利持氏に敵対したため、所領を没収され力を弱めていたが、江戸通房はこれを利用、妹を嫁がせて安心させ、1426年(応永33)、城主の満幹が不在の隙を狙って急襲占拠した。以降、大掾氏は何度も水戸城奪回を企てたが実らず、大掾氏は常陸府中城周辺の一勢力へと没落した。
1590年(天正18)の“小田原の役”後、常陸一国を所領安堵された佐竹義重・義宣父子は江戸重通に居城水戸城の明渡しを要求したが拒否されたため、同年12月、二手に分かれ急襲、江戸一族の根城13と館8ケ所を落とした。江戸重通は結城晴朝を頼って下総結城城に走り、7代160余年に渡った江戸氏の在城は終わった。
佐竹氏は、“会津の上杉討伐”や“関が原の役”で東軍に協力しなかったのを徳川家康に咎められ、1602年(慶長7)7月、羽後久保田に国替えとなる。
同年11月、徳川家康5男の武田信吉が下総佐倉4万石から15万石で入封するが、翌年9月に病死し、同年11月、家康10男の徳川頼宣(後の紀州徳川家[和歌山]始祖)が新封20万石で入る。しかし、1609年(慶長14)、駿河駿府城に移封された。
その後、頼宣の弟・頼房(家康11男)が常陸下妻10万石から、25万石(後に35万石に加増)で水戸に入封し、御三家水戸徳川家の始祖となる。
また、2代光圀により、「大日本史」が編纂されたり、1841年(天保12)には、9代斉昭が藩校「弘道館」を開設し、当時としては先進的な、医学・蘭学・天文学などが講じられた。
明治元年(1868)には、大手橋周辺で、倒幕派と佐幕派の間で激しい戦闘が繰り広げられ、藩校4つの建物のうちの3棟と、城内御殿などが焼失してしまった。
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