笠間城 ザ・登城
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ザ・登城

関東地方

常陸(茨城県北部)

関東では珍しい天守台・石垣が堪能できる山城

笠間城[かさまじょう] 別称=桂 城 (山 城)  【所在地】 茨城県笠間市笠間

 築城時期:  1219(承久元)年  築城者:  笠間持朝

かさま じょう
八幡台櫓
保健センター近くの真淨寺に移築

 遺 構  《 移築/櫓・城門  遺構/曲輪・天守台・石垣・土塁・空堀・井戸 》
本丸石垣  訪問時が、夕刻近く雨天のため画像が駄目でした。
再訪して画像掲載・更新します。 m(__)m
 
 笠間城は佐白山に築かれた、関東では珍しい石垣のある堅固な山城です。佐白山は花崗岩の岩山でもあります。

 江戸期の藩庁として使われた山麓付近の高台から本丸曲輪にかけては、山城というより平山城の縄張り、 堀切を隔てた天守台のある天守曲輪(佐白山山頂)は中世の山城、という2つの要素(縄張り)を持つ城です。

 登山路の途中、黒門跡近くに巨大な「大黒石」があり、大手門手前の千人溜りまで車で行くことがます。
大手門先の三ノ曲輪には、それほど高くはありませんが石垣群があり、腰曲輪を過ぎた二ノ曲輪・ニノ門から正門付近の石段は、苔生していて滑りやすいので注意して下さい。
本丸曲輪は意外に広く、南側には八幡台櫓土塁があり、せりだした西尾根上には穴ケ崎櫓跡があります。

 堀切を隔てて、東櫓門跡・土橋を抜けると、急な苔生した石段があり、この先がクライマックス、天守曲輪です。
山頂には見事な天守台があり、その上には、天守廃材を利用して建てられたという佐志能神社の社殿が建っています。

 また、天守台入り口を右に曲がり、険しい山道(搦め手道)を抜けると石がゴロゴロしていて、石倉(石材の資材庫)があります。


 1219年(承久元)、下野守護・宇都宮頼綱が甥の時朝に命じて築城させた。 持朝は後に笠間氏を称し、戦国末期まで宇都宮氏一門として約380年間この地を支配した。

 1590年(天正18)の“小田原の役”では、宗家である下野・宇都宮国綱が豊臣方についたのに対し、笠間綱家は北条方に味方した。小田原開城ののち、宇都宮国綱は秀吉の命で笠間氏を攻め、笠間氏は討ち取られ滅亡した。

 その後、宇都宮氏も秀吉により所領没収滅亡となり、1598年(慶長3)に、蒲生秀行が下野宇都宮に封じられると、家臣の蒲生郷成が城主として笠間に入る。

 関ヶ原以後は、松平(松井)康重が3万石で入封、1608年(慶長13)に丹波篠山へと移封。 その後、小笠原・松平(戸田)・永井氏と替わり、1622年(元和8)に常陸真壁より浅野長重が入封して53,500石を領した。 この永井・浅野氏時代に、笠間城は近世城郭へと改修された。

 1645年(正保2)、浅野長直が播磨赤穂へと転封する。 この長直の孫が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩である。  
浅野氏の後、井上・松平(本庄)・井上氏と経て、1747年(延享4)に京都所司代・日向延岡(宮崎県延岡市)城主・牧野貞通が入封して8万石を領した。
以後、牧野氏が8代続いて明治に至った。

 笠間城の石垣群は、関が原の直前、蒲生氏支配時に築かれたもののようです。

ようやく、笠間城の移築書院を見学してきました
2007.11.22
移築 書院
1820(文政3)年、笠間藩主牧野越中守貞明が、
笠間城内の書院を移築して寄進したものです

この書院で俳句の催しを致したと記録されており、
そのおり牧野公は、

 「振り向くは 泣く子の親か 田植え笠」
と、発句したと伝えられています。

所在地 雨引観音楽法寺:茨城県桜川市本木1


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