
| 関東地方 |
| 常陸(茨城県北部) |
南北朝時代、小田城・関城・下妻城と共に南朝方の拠点となる
大宝城 (平 城) 【所在地】 茨城県下妻市大宝(大宝八幡宮境内)
| 築城時期: 1232年(貞永元) | 築城者: 下妻長政 |
大宝八幡宮 山門
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| 遺 構 《 遺構/曲輪・土塁 》 | |
八幡宮石碑&一の鳥居近くの土塁 |
本殿北側(裏側)の土塁 |
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大宝城は、大宝小学校と大宝八幡宮境内にかけての範囲を城域としていた。
現在は、小学校建設と宅地化により、城の遺構はほとんど残っていない。
往時は、西・北・東の一部を大宝沼に囲まれた台地の自然の地形を利用した城郭で、東西288m・南北576mの北方を本丸、南方を大手、東を搦め手とした縄張りであった。
八幡宮本殿北側(裏側)に、この地で討死した、下妻政泰公の碑が建っている。 大宝八幡宮の本殿は、桃山時代初期に常陸下妻城主・多賀谷尊経により再建されたもので、国重要文化財に指定されている。
源頼朝の命により、大宝城は小山朝政が治め、小山氏は代々下妻氏を名乗った。
南北朝時代の1341年(興国2)、春日中将顕国が興良(おきなが)親王を奉じて常陸小田城よりここに移り、東国における南朝方の拠点として、相対する関城の関宗祐・宗政親子と相呼応して北朝方と戦い、足利尊氏の重臣高師冬にたびたび攻められた。
1343年(興国4)、北朝方の猛攻を受けて大宝城は落城し、6代城主下妻政泰は討死した。
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下妻政泰 忠死之地碑 |
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